拡大する日窒
日窒は大正3年に日本初の「空中窒素固定法」による硫安の製造を成功させ、日本最大の電気化学企業へと拡大していくことになる。大正12年には宮崎県延岡市に世界で始めてのカザレー法によるアンモニア合成工場を作り、この成功が更に日窒の発展を加速させていった。野口はこの延岡工場で作られるアンモニアの有効利用として人絹(合成繊維)製造を考えていたようで、ドイツのベンベルグ社から銅アンモニア法によるベンベルグ絹糸製造の特許を購入し、昭和4年4月に延岡工場の隣に「日本ベンベルグ絹糸株式会社」を設立した。この時点で延岡工場は実質「日本ベンベルグ株式会社」に対する原料供給工場となったため、昭和6年5月に日窒から分離独立させ、野口遵が初代社長となる「延岡アンモニア絹糸株式会社」を設立した。この「延岡アンモニア絹糸株式会社」がのちに、「イヒッ!」でお馴染みの旭化成株式会社になる。
日窒の解体と化学工業三社の誕生
野口は化学薬品のみにとどまらず日窒を軸に、火薬・金属・鉱山・油脂・食品・プラスチック・燃料・証券など多岐に渡って会社を作っていき「日窒コンツェルン」を形成していった。昭和2年には朝鮮窒素肥料株式会社を設立しており、この頃から朝鮮半島でも化学工場やダム、発電所を拡充、拡大させていく。しかし、第二次世界大戦の終戦により朝鮮半島の資産を全て失い、巨大な日窒コンツェルンも財閥解体のもとに企業分割されることになる。中心にあった日本窒素肥料は昭和25年に新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)となり、日窒の子会社であった延岡の日窒化学工業が昭和21年に旭化成工業株式会社として再出発している。昭和22年には日窒のプラスチック事業から積水産業株式会社(現・積水化学工業株式会社)が発足した。
まとめ
簡単にいうと曽木発電所から日窒になり、現在の日本の化学工業をリードする積水化学と旭化成、それからチッソ株式会社を生み出したのである。この曽木が日本の近代化学工業の発祥の地となり、この曽木発電所跡はそのモニュメントとも言うべき遺構ではないだろうか。来年(2006年)で曽木電気が創立されてちょうど100年になるが、このような時期にこの遺構と巡り合えたのはなんだか不思議な感じがする。ちなみに曽木発電所が廃止された昭和40年に、地元では近代化学工業発祥の地として「野口記念館」を建設しようとの声もあがったそうだが残念なことに実現はしなかった。一代で日本の近代化学産業の基礎を造り上げた野口の人生は非常に興味深くおもしろいものだ。彼に関する著書は数多くあるので興味がある方は是非見ていただきたい。
今回ここで報告したことは、この調査を行うまで私は全く知らなかった。しかし、チッソという会社は私も知っていたし、誰もが知っているだろう。そう、水俣病の原因企業の「チッソ」だ。今回の調査で水俣病という悲しい現実の裏に、このような歴史があったことを知ることができたのは私にとって一つの発見だった。
この調査を終えてひとつ新たに興味が向いたことがある。野口が朝鮮半島に残した多くのダムや発電所、工業地帯などだ。野口は現在の北朝鮮の北部に巨大なダムを幾か作っている。もう60年から80年ほど経っているとはいえ、巨大なダムがなくなってしまうことは考えられない。もしかしたらまだダムは現役で水を蓄えて、野口が作った発電所で電気を作っているのではないだろうか。しかし、こればっかりはそう簡単に調べられそうにないのが残念だ。
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