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曽木発電所遺構 No.03
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調査実施:2005年3月・6月 報告書作成:2005年7月15日 / 2005年9月14日修正・追記
       

曽木発電所から始まる歴史

 この発電所(曽木電気)の歴史を辿ると非常に面白いことがわかった。ただの昔の発電所ではないのだ。創業したのは野口遵(のぐちしたがう・1873〜1944年)という男で、彼にとってもこの曽木発電所が経営者としてのスタートになる。野口は東京帝大電気工学科を卒業後いくつかの職に付くが、ドイツの大手電機メーカーであるシーメンスの日本出張所で働く事になる。彼はここで電機技師としての技術を培うだけでく、水利権や特許権の取得など様々なノウハウを身につけ、後の自身の事業に役立てたといわれている。野口はこのシーメンスを辞めたあと34歳にしてこの「曽木電気株式会社」を創立する。

曽木電気株式会社から新事業へ
 この曽木電気株式会社は、鹿児島県伊佐郡大口村(現・鹿児島県大口市)にある牛尾鉱山・大口金山への電力供給と近郊町村への電力・電灯の供給を目的に、明治39年1月12日に設立された。明治40年10月に第一発電所の800kw×2基のうち、第1期計画分の1基が稼動し800kwが発電される。しかし当時牛尾・大口の両鉱山の電力消費量は200Kw程度。近隣町村の消費分を考えても800kw(第二期計画完成後は1,600kw)の発電量は多すぎることになるが、野口は同時にカーバイドの生産を視野に入れて「曽木電気株式会社」を作ったといわれている。そして曽木第一発電所からの送電が開始された同じ明治40年に、熊本県葦北郡水俣村(現・水俣市)にカーバイド生産工場である「日本カーバイド商会」が設立される。第二発電所は明治41年11月に、1590kw×4基のうち1基が着工される。これと同月に曽木電気株式会社と日本カーバイド商会は合併し、社名を「日本窒素肥料株式会社」(以後日窒)に変更し、日本屈指の化学会社への第一歩を踏み出した。その後、明治42年9月に第二発電所の1590kwの1基が完成するが、同月に起こった洪水により第一発電所が全壊してしまう。これにより第一発電所は復旧と第2期計画を諦め廃止されることになる。第二発電所は翌年の明治43年10月に残りの3基を完成させ、合計1590kw×4基で最大6,700kwの電力を、大口の鉱山と水俣の日本窒素肥料に送電した。社名の「日本窒素肥料株式会社」と「水俣市」という場所でもうお分かりだと思うが、現在の「チッソ株式会社」の前身になる。
 

明治39年1月12日 曽木電気株式会社設立
第一発電所
800kw×2基のうち、第1期計画800kw1基着工
明治40年10月
第一発電所
第1期計画800kw1基完成
明治41年11月
第二発電所
1590kw×4基のうち、1基着工
明治42年9月
第二発電所
1590kw1基完成
第一発電所
洪水により全壊、廃止
明治43年10月
第二発電所
1590kw×4基完成
昭和40年
第二発電所
廃止

 

拡大する日窒
 日窒は大正3年に日本初の「空中窒素固定法」による硫安の製造を成功させ、日本最大の電気化学企業へと拡大していくことになる。大正12年には宮崎県延岡市に世界で始めてのカザレー法によるアンモニア合成工場を作り、この成功が更に日窒の発展を加速させていった。野口はこの延岡工場で作られるアンモニアの有効利用として人絹(合成繊維)製造を考えていたようで、ドイツのベンベルグ社から銅アンモニア法によるベンベルグ絹糸製造の特許を購入し、昭和4年4月に延岡工場の隣に「日本ベンベルグ絹糸株式会社」を設立した。この時点で延岡工場は実質「日本ベンベルグ株式会社」に対する原料供給工場となったため、昭和6年5月に日窒から分離独立させ、野口遵が初代社長となる「延岡アンモニア絹糸株式会社」を設立した。この「延岡アンモニア絹糸株式会社」がのちに、「イヒッ!」でお馴染みの旭化成株式会社になる。

日窒の解体と化学工業三社の誕生
 野口は化学薬品のみにとどまらず日窒を軸に、火薬・金属・鉱山・油脂・食品・プラスチック・燃料・証券など多岐に渡って会社を作っていき「日窒コンツェルン」を形成していった。昭和2年には朝鮮窒素肥料株式会社を設立しており、この頃から朝鮮半島でも化学工場やダム、発電所を拡充、拡大させていく。しかし、第二次世界大戦の終戦により朝鮮半島の資産を全て失い、巨大な日窒コンツェルンも財閥解体のもとに企業分割されることになる。中心にあった日本窒素肥料は昭和25年に新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)となり、日窒の子会社であった延岡の日窒化学工業が昭和21年に旭化成工業株式会社として再出発している。昭和22年には日窒のプラスチック事業から積水産業株式会社(現・積水化学工業株式会社)が発足した。

まとめ

 簡単にいうと曽木発電所から日窒になり、現在の日本の化学工業をリードする積水化学と旭化成、それからチッソ株式会社を生み出したのである。この曽木が日本の近代化学工業の発祥の地となり、この曽木発電所跡はそのモニュメントとも言うべき遺構ではないだろうか。来年(2006年)で曽木電気が創立されてちょうど100年になるが、このような時期にこの遺構と巡り合えたのはなんだか不思議な感じがする。ちなみに曽木発電所が廃止された昭和40年に、地元では近代化学工業発祥の地として「野口記念館」を建設しようとの声もあがったそうだが残念なことに実現はしなかった。一代で日本の近代化学産業の基礎を造り上げた野口の人生は非常に興味深くおもしろいものだ。彼に関する著書は数多くあるので興味がある方は是非見ていただきたい。

 今回ここで報告したことは、この調査を行うまで私は全く知らなかった。しかし、チッソという会社は私も知っていたし、誰もが知っているだろう。そう、水俣病の原因企業の「チッソ」だ。今回の調査で水俣病という悲しい現実の裏に、このような歴史があったことを知ることができたのは私にとって一つの発見だった。
 この調査を終えてひとつ新たに興味が向いたことがある。野口が朝鮮半島に残した多くのダムや発電所、工業地帯などだ。野口は現在の北朝鮮の北部に巨大なダムを幾か作っている。もう60年から80年ほど経っているとはいえ、巨大なダムがなくなってしまうことは考えられない。もしかしたらまだダムは現役で水を蓄えて、野口が作った発電所で電気を作っているのではないだろうか。しかし、こればっかりはそう簡単に調べられそうにないのが残念だ。
 

追記:
野口が中国と北朝鮮の国境の鴨緑江に造った「水豊ダム」は今も現存しているそうだ。このダムは長さ900メートル、高さ170メートルの巨大な重力式コンクリートダムだ。昭和16年にはダム直下の発電所が発電を開始し、70万kwの電力を生んだ。現在は北朝鮮の所有。
文中敬称略

 

参考文献
■「大口市郷土誌 下巻」大口市郷土誌編さん委員会/編 1990年
■「日窒コンツェルンの研究」大塩武/著 1989年
■「野口遵」吉岡喜一/著 1962年
■「野口遵翁追懐録」高梨光司/著 野口遵翁追懐録編纂会/編 1952年

取材協力
■チッソ株式会社
■国土交通省九州地方整備局鶴田ダム管理所


この報告書を作成するにあたり、ご理解・ご協力頂いた皆様に深く感謝申し上げます。