マップ 報告書 掲示板 リンク 雑記帳
このサイトについて お問い合わせ
 
内大臣森林鉄道・鴨猪谷支線 No.06

調査報告書一覧 > 報告書 No.01 / No.02 / No.03 / No.04 / No.05 / No.06

調査実施:2005年1月〜7月 報告書作成:2005年10月09日
       

鴨猪谷支線のスタート地点「角上」について

 鴨猪谷支線の現地調査は、若干の未踏査区間は残るものの、始点から終点までそのほとんどを見ることができた。また、少ないながらも幾つかの資料も見つけることができ、現地調査が進むにつれて、その支線の全体像が見えてくるかに思えた。しかし、実はこの鴨猪谷支線、大きな謎があったのだ。

鴨猪谷支線の謎

 この支線の調査を始めた当初は、何も疑問に感じることはなかった。私にとって“森林鉄道”の探索はこの支線が初めてであったため、“不自然な点”に気が付かなかったのだ。読者諸兄の中には気付いている人もいるだろう。その“不自然な点”とは報告書No.01に登場する角上の「林鉄にしては立派過ぎるトンネル」である。正確に言うと、トンネルから内大臣林道を含む角上橋付近の広い範囲が“不自然な点”だ。この鴨猪谷支線の初期の段階での調査は、現行の地図(地形図)を元にして行なっていたので疑問に思うことは何も無かった。しかし、JTBキャンブックス発行の「鉄道廃線跡を歩く]」の内大臣森林鉄道の項に「角上から分かれていた鴨猪谷支線の橋脚」が写真付きで紹介されているを見つけたときに“不自然な点”に気付いたのだ。

 角上にある鴨猪谷支線の橋脚とは、現地に行くとすぐに見つけることが出来る。現在の角上橋より100〜200mほど下流にあり、大きな岩の上に石組みで造られている。この橋脚の地点で対岸に渡るとなんとトンネルを抜けた先に渡ることになり、トンネルから角上橋までの軌道の存在が「?」になってしまうのだ。さらに昭和34年当時の地図でも、鴨猪谷支線はこの橋脚があった地点から幹線と分かれて始まっているようであり、例のトンネルの存在は見ることができない。トンネル自体も林鉄のモノにしてはかなりのオーバースペックだ。大型トラックも通れるくらいのサイズである。素人目にみても道路用ではないかと思える。トンネルから先の軌道跡も謎である。幹線は内大臣川の西岸を通っている。内大臣川の東岸にもトンネルから軌道跡が残っており、林道の路面には枕木まで残っている。謎を要約すると以下の2点になる。

  1. 角上橋付近の内大臣側東岸の軌道跡はなんなのか?
  2. 角上橋付近のトンネルは何故こんなに立派なのか?

私の下手な文章では良く分からないと思うので下の比較図を見てもらいたい。
 

  
  
謎は謎のまま?
 

 “謎のエリア”とされる部分は、一体なんなのか。この林鉄を敷設した当の九州森林管理局(当時の熊本営林局)には、内大臣森林鉄道の工事記録が「国有林野土木台帳」として、「矢部営林署」と「濱町榮林署」の2冊が残されている。しかし残念なことに、いずれにもこの謎を解く鍵はなかった。
 「矢部営林署」土木台帳の鴨猪谷支線の項には昭和45年に「用途廃止」と記されるまで土木工事の記録が詳細に残されているが、不思議なことに角上付近の線路やトンネルの記載がない。資料を閲覧させてもらった九州森林管理局広報室の方は親切に取材に応じていただいたが、現在はこの他に資料も残ってなく、また当時の事情を知る職員も残っていないとの事で、これ以上のことは分からなかった(でも他の支線の情報に関しては大収穫!ニヤリ)。もう38年前に「用途廃止」になった物件だ。いくら管轄してたといえ記録が残っていないのも仕方ない。
  

  

  

 
推測してみる

 鴨猪谷支線での今までの調査結果を踏まえ、この“謎のエリア”の実態を推測してみたい。まず重要なポイントとして、幹線が林道化した後も鴨猪谷支線の軌道が使われ続けたことが挙げられる。

 幹線が廃止されたのは昭和37年。林道の角上橋が完成したのも昭和37年の9月のことだ。そう、昭和37年の9月にはトラックが角上橋を通れるようになっているのだ。しかし、鴨猪谷支線は昭和42年まで運行されている。正式に「用途廃止」となるのは昭和45年だ。少なくとも4、5年ほどの間は、幹線が林道(トラック輸送)で支線が軌道(トロッコ輸送)の形態が取られていることになる。

 ということは、この軌道と林道が出会う角上橋付近で、鴨猪谷よりトロッコで運ばれてきた木材をトラックに積み替えなければならない。木材を積み替えるためには、それなりの広さを持った場所が必要になるだろう。トロッコも何両もあるため、長めの引き込み線も必要と考えられる。また小さくとも貯木場のような場所も必要であったに違いない。それらのことを考えて、角上周辺の地形を見てみると非常に納得できるのだ。

 実際現場に立ってみると、杉の木が随分成長しているもののトンネルから角上橋、その先の左カーブまで広い平場が続いているのがわかる。カーブ手前にの路上には枕木も残っている。現在でも古い倉庫などがあるが、それ以外にも石垣などが杉林の中に多数残されており他にも建物があったことが予想できる。このことから、謎1.の「角上橋付近の内大臣側東岸の軌道跡」はトラックへ木材を積み替えるための引き込みだったと推測できる。

 残る謎はトンネルだ。上記の「トロッコから木材をトラックに積み替える」という説だけでは、このトンネルが何故こんなに立派なのか?までは説明できない。しかしこの件は、鴨猪谷支線跡の前半部分の現状を考えると、推測するに難しくない。

 下の地図は鴨猪谷支線の軌道跡だが、赤の実線で示した部分が現在林道化または拡幅されており、赤の破線はオリジナルの軌道敷を保つ部分だ。この赤線を見ていると、角上から鴨猪谷まで支線跡全てを林道化しようとしていたのではないかという推測ができる。事実、角上橋から謎のトンネルまでは十分な幅員を持った平場が続く。また、軌道を使わないと、内大臣林道から鴨猪谷へのアクセスが非常に悪い(かなりの遠回りになる)ことも、鴨猪谷支線の林道化の理由になる。つまり、角上橋からの鴨猪谷支線を全て林道化しようとトンネルを車道規格で造ったが、なんらかの理由によって中止になり、林道化の工事もトンネルより先は行われなかった、と推測できないだろうか。
 


 

 では結局林道化が全て行われずに、途中で投げ出されたような形になったのは何故か。これにも2つの理由が簡単に推測できる。一つは、赤の破線区間の地形・地質が厳しかったということだ。報告書No.02No.03で書いたとおりに、この区間の地形は非常に急峻なものであり、垂直に近い断崖を強引に通っている部分も多くある。事実現状では崩落が激しく、路盤が原型を留めている所は少ない。このような状況で、軌道跡を林道へ拡幅するのは非常に困難であったため、計画を断念したと考えられないだろうか。もう一つは、周辺道路の整備などにより鴨猪谷へのアクセスが容易になり、内大臣から無理して軌道跡を林道として辿らなくてもよくなった、という推測。またはこれらが複合したということも考えられる。いずれも裏付けのない推測だが、現時点ではこれ以上のことは分からない。当サイト以外に内大臣森林鉄道を唯一紹介しているWebサイト「内大臣・緑川スペシャル」で、作者の吉松氏も角上橋周辺の“謎”について考察されている。私も実地調査を基に上記のように推測した結果、吉松氏の仮説と同じ結論に至った。
 今回、現地踏査や資料調査は行ったが、地元での聞き取り調査などやり残していることも多い。今後も多角度から、この鴨猪谷支線の角上橋周辺の謎に挑みたいと考えている。調査は幹線同様に継続するので、新事実が分かり次第また報告する。

 

調査続行中

 

※本ページ内の「鴨猪谷支線分岐点・角上周辺図」は測量したわけでもないので、位置・距離などは正確なものではありません。

 

参考文献
■「全国森林鉄道」西裕之/著 JTBキャンブックス・2001年
■「鉄道廃線跡を歩くX」宮脇俊三/著 JTBキャンブックス・2003年
■「熊本営林局管内概要」熊本営林局・ 1936年
■「年輪」熊本営林局・ 1987年
■「矢部町全図」矢部町・ 1959年

取材協力
■九州森林管理局広報室

この報告書を作成するにあたり、ご理解・ご協力頂いた皆様に深く感謝申し上げます。