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坂本隧道・旧西日本製紙株式会社工場跡 No.02
調査報告書一覧 > 報告書 No.01 / No.02 / No.03完

調査実施:2005年3月 報告書作成:2005年5月20日
       

 この地は昭和63年に解散した「西日本製紙株式会社」跡である。この製紙会社というか、この製紙工場の歴史は明治から始まるが、会社としての沿革はとても複雑であり興味深いものであった。
明治28年にこの地の豊かな水資源(工業用水としてと落差による動力として)を利用して九州では初めての製紙会社が作られることになった。当初「肥後製紙株式会社」であったが、翌年に「東肥製紙株式会社」に改称して明治31年に操業を開始した。当時は鉄道もなく(肥薩線八代〜人吉間は明治41年開通)物資の輸送は全て球磨川使い、帆掛け舟で行ったそうである。この当時、球磨川沿いから工場までエンドレスと呼ばれるトロッコ軌道敷が作られた。また、この頃の工場の動力源は鮎帰川の水力だった。上流から水路で工場地付近まで標高を稼ぎ、その落差でベルトン水車2基を駆動し工場内の動力としたのだ。この工場で生産された紙は大蔵省印刷局で地券紙に使用されたりもしたが、明治32年7月に大火災に見舞われ、また営業不振もあり明治36年にその幕を閉じる。しかし製紙工場としては終わりではない。

 明治36年に東肥製紙に代わり「九州製紙株式会社」が設立される。九州製紙株式会社は第一次世界大戦の特需により大きく業績を伸ばし、設備増強に加え八代市にも工場を増設した。鮎帰発電所や深水発電所などを自前で建設したのも「九州製紙株式会社」時代である。製紙業界はどうも合併・吸収が激しかったらしく、この「九州製紙株式会社」時代もそう長くはなかった。

 大正15年、当時の製紙業界トップ2の王子製紙と富士製紙に対抗するために、樺太工業を母体に中央製紙・中之島製紙、そして九州製紙株式会社の4社が合併し「樺太工業株式会社」となる。

 しかし昭和8年の不況により、本来対抗するはずだった王子製紙と富士製紙と「樺太工業株式会社」の3社は合併し「王子製紙株式会社」という巨大製紙会社になる。「王子製紙株式会社」として第二次世界大戦までを乗り越えた同社だが、終戦時にG.H.Qの財閥の解体及び経済力の集中排除政策により苫小牧(現王子製紙)・十條・本州の3社に解体されてしまう。この坂本村と八代市の工場は、小倉・都島・伏木・十條・釧路の工場と一緒に「十條製紙株式会社」となる。
 

 昭和40年に「十條製紙株式会社」は坂本と小倉の工場を八代に統合する計画を発表する。経営の合理化の一環であると思われるが、小倉は大量に水を使う製紙工場としては水の確保が難しく、また坂本では谷あいの立地ゆえ施設の拡充が難しい問題があったようだ。そこで球磨川の豊かな水が使え、平地で用地拡張も簡単な上に国道3号と国鉄八代駅に隣接するという格段に諸条件がいい八代工場に統合されることになったと思われる。これに対し労働組合が統合案の撤廃を要求しストライキを起こし、坂本村の議会も十條本社と関係官公庁に同坂本工場の存続を求めた。特に大きな産業もなかった坂本村にとっては、雇用と税収の面でこの件は無視できなかったと容易に想像できる。結果は存続の働きかけがあった甲斐もあって、十條の3工場は八代市に統合されるものの、坂本工場は十條製紙の子会社として新会社を設立し存続することになる。
 
 昭和42年、“最後”となる「西日本製紙株式会社」が設立される。西日本製紙時代は老朽化した設備の整備・改修などで近代化を図り生産効率を上げ、工場は活況を呈していたそうだ。しかし昭和62年に親会社である十條製紙株式会社が、八代工場を約300億円かけて拡充するとともに「西日本製紙株式会社」を廃止する方針を発表した。これに対し従業員のみならず村あげて存続運動に取り組んだが、その甲斐なく昭和63年9月に西日本製紙株式会社は解散し、坂本村で約100年続いた紙漉きの歴史は幕を閉じたのである。
 
 さて、親会社の十條製紙株式会社だが、平成5年に山陽国策パルプ株式会社と合併し「日本製紙株式会社」となって現在に至っている。
 現在、八代市のランドマークともいえる製紙工場と、この坂本村に約100年前からあった製紙工場との複雑な関係をみてみると、ひとつの企業にも多くの歴史があることに驚かされる。このようなことが人知れずひっそりと歴史の中に埋もれているのも勿体無いと思ったが、実は「道の駅・坂本」の展示室でその歴史がパネルなどで紹介されていた。工場が稼動していた時代の写真や関連する品々などを多数展示してあるので、興味がある方は是非足を運んでいただきたい。