この図で見る限りでは、かなり巨大な工場だ。こんな大規模な工場が鏡町にあったのか…。この工場鳥瞰図を見たときは、正直とても驚いた。本来ならこの時点でカメラと古地図片手に現地へすっ飛んでいるところだが、今回すぐにはそんな気にはならなかった。なぜなら、私の知っている鏡町にはそんな工場はない。私の鏡町に対するイメージは「田んぼばかり」だったので(失礼!)大正時代に大規模な工場があったなど、にわかに信じがたいものがあった。それに加え、大正15年には日窒鏡工場は操業をやめているのである。80年前の、しかも戦前に無くなっている工場の痕跡がはたして存在するのだろうか…。
小千代橋
この小千代橋も日窒鏡工場と同じく、「野口遵」の中に鏡工場に関連するエピソードの一つとして紹介されている。ここで少しこの「野口遵」という文献について説明しておこう。本の題名になっている野口遵(のぐちしたがう)は日本窒素肥料株式会社の創業者の名だ。彼がどのようにして起業し日窒コンツェルンを形成していったかを、昭和33年に新日本窒素肥料株式会社社長を務めた吉岡喜一氏が書きまとめたものだ。いわゆる伝記になるものだが、当時(明治〜終戦)の世相やエピソードがふんだんに書かれて、また野口遵の人情味あふれる人間的な側面もよく描かれており面白く読むことができる。なりより古い本にありがちな難しい言い回しなどなく、とても読みやすい文章なのもありがたい。日窒の歴史を調べる人(そんなにいないと思うが)にはオススメの入門書とでもいえるくらいだ。
さて、話を小千代橋に戻そう。この小千代橋、当サイトで扱う物件としては少し違うような気もするが、その話がおもしろかったので紹介したい。文献によれば、当時野口には小千代さんという愛人がいたという。まあこの時代、お金持ちの旦那さんと“おめかけさん”のお話なんて、特に珍しくないだろう(と思う)。その小千代さんは若く美しいだけでなく、賢く気質のやさしい人だったそうで、野口の愛情も特別にふかく、二人の仲のよさは格別だったという。そんな小千代さんが、この鏡町で急死したのだ。悲しみにふける野口は、若くして逝った小千代さんを忘れがたく、工場の前に掛けられた橋に“小千代橋”と自ら命名したという。…。凄すぎる…。時代が時代とはいえ、愛人の名前を橋に付けるとはなんとも豪快ではないか。
日窒鏡工場の痕跡と小千代橋は現存するのか?
文献にある「工場の前に掛けた橋に“小千代橋”と命名」という部分で、一つ考え付いた。小千代橋が日窒鏡工場の所在地を知る手がかりにならないだろうか。確証はないが、橋なら現存している可能性があると思ったのだ。橋は一度作られると道の一部となり、人々の生活に深く溶け込んでいく。古くなれば新たに架け替えられても、元々あった場所から撤去されることはないように思う。また架け替えられたとしても、同じ場所である限り名前が変えられることはないだろう。そのようなことから、今も鏡町のどこかに小千代橋が存在している可能性が十分に考えられる。小千代橋が見つかればその周辺が工場跡ということになるわけで、なにか遺構などがあるかもしれない。仮に工場の痕跡が見つからなくとも、この小千代橋が見つかれば十分面白いではないか。なんだか(調査を)やる気がムクムクと出てきたぞ。
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