鏡工場の沿革
日本窒素肥料株式会社(日窒)は、明治39年に野口遵が鹿児島県大口市に曽木電気株式会社を設立したのが始まりだ。(この辺の概要は報告書「曽木発電所遺構No.03」にあり) 翌年に日本カーバイト商会が水俣に設立され、明治41年に曽木電気と合併し、日本窒素肥料株式会社が誕生する。42年には水俣工場が完成しカーバイト・石灰窒素の生産が始まるが、はじめのうちは随分と苦労があったらしい。製品の品質が上がらないだけでなく、製品の「石灰窒素」という“新肥料”の販売がうまくいかなったようだ。当時の肥料は豆粕や油粕、魚肥などの有機肥料が一般的で、そこに来て保守的な農民に「石灰窒素」という化学肥料を普及させるにはただならぬ苦労があったという。しかし、石灰窒素の品質も次第に向上し、また石灰窒素を変成して硫酸アンモニアの生産を始めるなどして明るい見通しが立ってきた。そこで大正元年、野口は新工場建設の計画をスタートさせる。また、新工場に電力を供給する為、新たに阿蘇郡錦野村(現・菊池郡大津町)に白川発電所を建設することも同時に始まった。
鏡町と日窒
実は、始めから鏡町に工場が作られると決まっていた訳ではなかった。新工場の建設候補地として鏡町以外にも八代(現・八代市)・松橋(現・宇城市)・木ノ葉があり、それぞれの地元有志が誘致運動を展開していた。港や鹿児島本線などへのアクセス、発電所への距離や水の調達などそれぞれに一長一短があったのだが、結果は鏡町に新工場の建設が決定することとなる。この時の面白いエピソードが、複数の文献に残されているので以下に紹介したい。新工場の建設を急ぐ野口は、八代・鏡・松橋の有志一同と熊本市の旅館で会見を行うことになった。既に各町村それぞれの有志がつめかけていた旅館に野口が姿を現すと、いきなり鏡町の運動員が「ここにつめかけている有志はみな鏡町の者で、鏡が一番(誘致に)熱心である証拠です」と言ってのけたという。また、別の文献では少し違う話もある。各町村それぞれの有志たちの前に現れた野口に、会社側の人間が鏡町の運動員三人を「こちらが鏡の方々です」と紹介した。「ああそう」と立ち去ろうとした野口に、鏡町の三人が「よろしくお願いします」とお辞儀をしたところ、他の八代・松橋の有志も挨拶のつもりで一緒にお辞儀をしてしまった。それが傍から見たらその場の全員が鏡町の運動員に見えたという。まあそれらのエピソードが決め手になったかどうかは分からないが、新工場は鏡町に建設することが決定されたのだった。
最新の硫安工場
カーバイトから硫安(硫酸アンモニア)までの一貫生産を行う、日本初の空中窒素固定法を採用した最新式の工場として、大正3年1月に日窒鏡工場は操業を開始した。この年の11月には阿蘇の白川発電所が完成し、熊本電気から買っていた電力を全てこの白川発電所に切り替えている。鏡工場の製品はカーバイト、石灰窒素、硫安、変成硫安の副産物としてのセメントなどだが、これらの製品は大正3年の第一次世界大戦勃発に伴う好景気の影響で価格の高騰が始まることとなる。硫安などは外国産の輸入が激減したため、工場の製品は売れに売れまくったそうだ。ちなみに大正3年に1トンあたり130円だった硫安市価は、大正6年には400円台の値が付いた。売り上げ大幅増の鏡工場では特別賞与金が出て、古い職員たちがみな金ぐさり付の金時計を胸にぶら下げている風景を見ることができたという。この景気に乗った日窒は鏡工場を拡張をしていき、大正5年には熊本県矢部町(山都町)に内大臣発電所を造って電力を確保し、不足分は緑川電力株式会社から10,000kwの電力を購入して更に生産を伸ばしていった。
鏡町の変貌
元々大きな産業がなかった鏡町に、これだけの規模の工場が造られたのだから、町が大きく発展していったことは容易に想像できる。工場に伴う町の発展ぶりは、人口の変化として「鏡町史」にも紹介されている。それによると、明治27年から大正2年の工場一部完成の年まで3,821人〜3,840人と20人程度で推移していた人口が、大正5年には5,451人、大正11年には8,295人まで爆発的に増加している。残念ながら、当時の鏡工場の従業員数を記録に見つけることはできなかったが、急激な人口の増加は従業員やその家族の増加にとどまらず、工場や従業員相手の商店や商売も発展していったことを示している。実際に町には従業員目当ての商店や料理屋、娯楽施設が次々に作られていき、また町費の2/3は工場が負担したため、町民の負担は減り、近隣町村が羨む発展ぶりだったという。現在でも鏡川の沿線を歩くと、元々は料亭や飲食店であったであろう古い建物を多く見ることができる。
日窒鏡工場の終焉
最新の硫安(硫酸アンモニア)工場として、好景気の中で繁栄を続けて行くと思われていたであろう日窒鏡工場は、野口が新しいアンモニア合成法の特許権を買収したことにより、その運命に大きな転機が訪れる。新しいアンモニア合成法とは「カザレー式アンモニア合成法」のことで、大正10年に野口が別件でヨーロッパに出かけた際、たまたま勧められたカザレー博士の実験を見て即座に特許の買取を決断したものだ。カザレー式の導入を決めた野口は鏡工場でのプラント建設へ動き出すが、すぐにその計画を大きく変更することになる。大正11年3月の日窒本社重役会で「カザレー式工場は鏡工場内に設置することを変更し、金壱百八拾万円也の予算を以て宮崎県延岡に之を建設すること」と方針を決定している。“鏡工場内に設置することを変更し”とあることから、当初は鏡町にカザレー式工場が造られる計画だったことがわかる。しかしこの方針の通り、鏡工場ではなく宮崎県延岡市にカザレー式新工場は建設され、大正12年に世界初となるカザレー式アンモニア合成法による操業が開始された。延岡工場の成功により、大正14年には水俣工場にもカザレー式のアンモニア合成設備が作られる。水俣工場の生産能力は延岡工場の3倍近くもあり、これにより日窒は大きく生産力を伸ばすことになる。鏡工場の石灰窒素法でも十分な採算が取れたが、このカザレー式とはまったく比較にならず、鏡工場は“時代遅れ”の工場になってしまったのである。
大正15年、日窒は信濃電気株式会社と共同で信越窒素肥料株式会社を設立する。新潟県直江津に石灰窒素法の工場を建設することになったのだか、日窒は鏡工場の製造設備を“現物出資”として移転した。また多くの社員も出向として直江津の工場に移って行った。もちろん地元では一大事である。鏡工場の移転の計画が持ち上がった時、町の有志十数人が日窒に出向き工場継続の陳情を行ったりもしたが、結局日窒は方針を変えることはしなかった。
ところで、カザレー式の導入がなぜ鏡工場では行われなかったのだろうか。それどころかどうして鏡工場は無くなることになったのか。諸説あるようだが、文献「野口遵」には
「鏡では農漁村の住民と被害問題で紛糾した」ため、別の土地を物色することとなった。 |
とある。被害問題とは公害による補償問題のことのようで、工場の排煙・排水などにより農水産業に被害があったらしく、農民や漁民からの苦情が絶えず賠償金でもめる事が多かったという。カザレー式新工場を鏡工場に建設することにおいても、排水の問題で最後まで地元の承認が得られなかった。また、昭和27年発行の「鏡郷土誌」には
野口がなぜ「鏡」を捨てたか。それは明瞭ではない。地元の人々は、あまり会社に難題ばかり申込んで、野口にいや気をおこさせたためだと信じている。
(中略)
目先の小利に、ほくそえんでいた人々も、工場移転という大局的の不利の前には、いまさらへそをかんでみたところでどうにもならぬことであった。 |
と紹介されている。しかしこれだけの理由で、鏡町でなく延岡が選ばれた訳ではないようだ。野口は以前から、宮崎県延岡市は五ヶ瀬川があり水にも恵まれ、優れた工業地として注目していたという。五ヶ瀬川上流の山間部は雨量も多く、なにより多くの電力を消費する化学工場にとって、水力発電に適した魅力的な電源地帯だったのだ。実際に大正14年から昭和2年の間に自家発電所として、五ヶ瀬川発電所・馬見原発電所・川走川第二発電所・川走川第一発電所・一ツ瀬川発電所、と次々に作られて延岡工場に電力を供給した。
やはり立地と言う点で、鏡より延岡だったのだろうか。正確な理由は残っていないが、こうして日窒は鏡町を去っていったのだ。まさに鏡町の大正時代は日窒と共に歩み、共に終わっていった。
日窒が去った跡に
日窒が去ったあとは当然町は灯が消えたようにさびれてしまったという。しかし、鏡町は運が強かった。昭和2年、九州の中心に工場を設けて全国に配給網を完成させる計画をしていた大日本人造肥料株式会社が、日窒が鏡工場を売却する話を聞きつけ譲り受けることとなった。こうして日窒鏡工場跡は残った設備と共に大日本人造肥料株式会社に売却されることになり、鏡町は衰退をまのがれ再び活気を取り戻していく。
大日本人造肥料株式会社
この会社は今の日産化学工業株式会の前身となる化学肥料のメーカーで、明治20年に日本最初の化学肥料製造メーカーとして創業している。大正12年に関東酸曹株式会社と日本化学株式会社を合併買収し、大正15年に2,240万円の資本金を3,500万円に増資、その増資金の一部で鏡工場跡を買収した。
昭和2年10月、譲渡を受けた土地・建物・施設などの登記を完了させると、すぐに工場施設の改造・改修・新設に着手する。この時のことが書かれている文献「大日本人造肥料株式会社五十年史」(昭和11年発行)に非常に興味深い記述が記されていた。日窒鏡工場には引込み線があったということは当報告書でも写真と図で記録があったことを紹介しているが、この文献で始めて少し踏み込んだ記録を見つけることができた。それによると、大日本人造肥料は鏡工場買収直後に鏡軌道株式会社の所有する工場と、国鉄有佐駅までの軌道を買収し製品その他の輸送に使ったと書かれている。鏡軌道株式会社とは?日窒鏡工場の引込み線は日窒付属のものでなく、鏡軌道株式会社という“鉄道会社”が別に経営をしていたものなのか。鏡軌道株式会社という会社を調べてみると、大正8年創設ということと、大正14年発行の鏡町勢要覧に社名と数字を見つけただけで、現時点では残念ながら詳しい記録などを発見するに至ってない。はじめは日窒鏡工場の付属の引込み線だったが、大正8年に別会社として経営を独立させたのだろうか。しかし鏡町に軌道会社があったとは、これまた予想外の発見だった。
さて、この大日本人造肥料鏡工場は、日窒と同じくカーバイトなども生産していたが、他に硫酸、燐酸、過燐酸、化成肥料や配合肥料、セメントも生産していた。昭和10年頃には約170,000平方mの工場敷地に、職員と従業員合わせて247名が働いてたというから、日窒時代と変わらない「大きな工場」だったのだろう。
日産化学工業株式会社
昭和12年に大日本人造肥料株式会社は日本産業株式会社と合併し、社名は日産化学工業株式会社と改名された。終戦直後の昭和21年5月には、日産化学工業と子会社32社はG.H.Qにより制限会社に指定され、4部門に分割されることになる。鏡工場は戦時中に酷使された設備・機器の修理新設で生産復興をはかり、同時に労働組合の結成や厚生施設の改善などが行われて大きく変化してく。戦後は古い建物の建て替えや、設備の更新、輸送用のトラックの購入など工場の近代化を進めていった。順調に戦後の復興が行われていき、昭和29年ごろの鏡工場は工場敷地約170,000平方mで従業員が500人を越え、月間生産高も硫酸5,000トン、過燐酸石灰10,000トン、化成肥料3,000トンになっていた。
突然の閉鎖…
順調に続いていくかのように思えた日産化学鏡工場。しかし昭和33年に突然幕を閉じることになる。この理由は日窒鏡工場の移転よりもハッキリとしていないが、一説には労働闘争の激化が工場の衰退を招いたといわれてる。実際昭和28年に、賃上げ要求が受け入れられなかったため大規模なストライキが行われたことが、鏡町の一大事件として記録されている。4月13日に部分ストライキから始まったが、度重なる団交も全て決裂し、すぐに全面ストライキに突入する。ところが早期田植えの阿蘇農民から肥料の出荷を要求された会社は、トラックによる出荷を強行しようとし、組合側はピケをはってそれを阻止した。会社と組合は双方が多方面に応援を求め、その衝突は日に日に激しいものになり、遂には負傷者まで出て警察が動く事態とまでなった。結局6月8日にストは解除されたが、この事件を契機に工場内の様々な問題が噴出し、日産化学工業株式会社は鏡工場を閉鎖することになったようだ。
大工場なき鏡町、そして現在へ
昭和33年、遂に鏡町から大工場は無くなってしまった。日窒が去り、その後の日産化学も去っていった当時の町民の心境はどんなものだったのか。雇用と税収、経済効果を考えると町にとっては相当の痛手であったと思う。今度ばかりは日産化学鏡工場の跡地を一括で買い取り、工場として使おうと名乗りを挙げる会社は現れなかったのだ。
昭和37年になり、大阪の有機肥料を取り扱う会社が、鏡工場跡地の北側およそ1/4にあたる36,022平方mに工場を建設した。この会社は昭和50年になって大阪から本社をこの工場に移し、現在に至っている。さて、残りのおよそ3/4である138,692平方mの鏡工場跡地は日産化学の手で分譲地として整備が行われた。その跡地を昭和63年から平成元年にかけて、鏡町が段階的に取得し、郷開工業団地として企業誘致を開始することになり、その結果約30もの会社が入る工業団地として現在に至っている。
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